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単一の思考で世界を覆わないために~文学とジャーナリズムのまなざし~

文学とジャーナリズム

文学=フィクション、ジャーナリズム=ノンフィクションなのか?

今回は、明治大学人文科学研究所が開催した講座「文学と読書の現在」より、平尾隆弘氏(前文藝春秋社社長)が語った文学とジャーナリズムの違いと共通性についてレポートします。

サリン事件の報道方針は“文学的”すぎ?

平尾隆弘氏が文学とジャーナリズムの違いを意識したのは、1995年3月、地下鉄サリン事件が起きたときだった。

当時、週刊文春の編集長に就任したばかりだった平尾氏は、立花隆氏にオウム事件に関する連載を依頼した。内容の軸は2つ。

1つは「犯行へのプロセス」。これは、いかに犯行に至ったのかを考えるもの。もう1つは「教義について」。これは教団の教義に殺人を容認するものがあったのか否かと、教義を受けた者の心理について探るもの。

編集長が立てたこの軸に対し、編集部員から批判が起こった。

「文学的すぎる!」
「週刊文春の編集長に徹してください!」

その趣旨は「オウムは批判する対象であって、理解する対象ではない。理解してはいけない」というものだった。

立花隆氏はジャーナリストである。その氏にこの軸で依頼することがなぜ文学的なのか? これを機に、平尾氏は文学とジャーナリズムを意識するようになった。

文学で自分を知り、ジャーナリズムで世界を知る

文藝春秋社では、文学を「文藝」、ジャーナリズムを「春秋」として区別している。

文藝に配属された社員は「編集者」として育てられ、春秋に配属された社員は「記者・ジャーナリスト」として育てられる。呼び方からして違うように、この二者は思考も違う。

文藝(文学)の編集者は、筆者の世界観を理解する。筆者の最大の理解者となり、筆者を褒め、そのうえで足りない部分を批判するのだ。つまり「理解から問う」のが仕事となる。

一方、春秋(ジャーナリズム)の記者は、批判的視点から入り、問題点を整理する。「なぜ?」「これはおかしい、どうなってるの?」というように、「疑問から理解を深める」のが仕事となる。

物事の入り口は、文藝が「この人の意見を聞きたい」という人への好奇心から入るのに対し、春秋は事件や現象、行動への好奇心から入る。文学の入り口は「人」、ジャーナリズムの入り口は「事(コト)」なのだ。

この2つの違いを平尾氏は、自身の言葉で次のように述べた。

文学は自分を知る「内なる言葉」。
ジャーナリズムは世界を知る「外なる言葉」。

2つは明確に違う。しかし、その構造は変わらない。内なる言葉と外なる言葉は、別れていなければならない。しかし、この2つは、どこかで出会わなければならない。どちらか一方ではいけない。

なぜなら、単一の思考で世界を覆ってはいけないからだ。

講演タイトル:「文学と読書の現在~第一線からのまなざし~」明治大学人文科学研究所公開文化講座
開催日:2015年10月24日
第一部スピーカー:平尾隆弘(前文藝春秋社社長/明治大学特別招聘教授)
第二部スピーカー:中沢けい(作家/明治大学政治経済学部卒業)、羽田圭介(作家/明治大学商学部卒業)、総合司会/伊藤氏貴(明治大学文学部准教授)

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