皿と犬から、命について考える
【皿】
落としても割れないプラスチックのお皿と、落としたら割れる備前焼。毎日の食事で使うなら、プラスチックのほうが利便性が高い。だって、洗うときにうっかり手が滑っても割れないからね。
でも…
備前焼のほうがプラスチックの皿より何倍も高い値段で売られている。そして人は(私も)、備前焼のほうをありがたがる。それはなぜだろう?
【犬】
先日、クローンペットのニュースを目にした。ペットが死んでも、そのペットの遺伝情報を持つクローンを金(600万円)でつくれるというニュースだ。
ペットが死ぬと、自分が生きているのがしんどくなるほどダメージを受ける。子どもの頃、飼っていた犬が死んだときそうだった。だから「生き返らせたい」という気持ちはわからなくはない。けれど、クローンをつくることに、私は賛成できない。なぜだろう?
かわいがっていた犬と同じ遺伝情報を持つ犬だ。見た目は同じ、性格は……まぁ、育て方によって変わってくるだろうから、また初めから育てなおしになるのだろう。だから性格はまったく同じにはならないはず。
けれど、性格のベースにあるもんは同じだろうから、先代と同じように育てれば、似たような性格になるだろう。かわいくないわけがない。それでも、クローンをつくることに私は賛成できない。
なぜだろう? 死の方向から考えてみたい。
【死】
備前焼は人がひとつひとつ手でつくって釜で焼くものだ。同じ形のものはない、世界でたった一つの器。だから高価なのだ。でも、高いのに、一度落としただけで割れてしまう。だから扱うときは、丁寧に扱うのだ。割れないように、傷つかないように。
ペットもそうじゃないだろうか。命は一度きり。一匹の犬に、ひとつの命。一人の人間に、ひとつの命。死んだら終わり。ゲームみたいにライフが3つあるわけでもないし、リセットボタンもない。死んだら、終わり。
だから命は大切なんじゃないだろうか。掛け替えがないから、大切にするんじゃないだろうか。
愛の方向から考えるとどうだろう。
【愛】
クローンペットは死んだペットの代わりではない。クローンペットはクローンペットだ。死んだペットとは別の人格がある(犬なら犬格、猫なら猫格、ほか省略)。
クローンペットの性格が、死んだペットとは違うものになった場合、飼い主の愛はどうなるのだろう。「わたしのあの子は、こんな子じゃなかった」といって処分してしまうのだろうか。
まぁ、さすがにそこまではしないだろうけど、「あの子とちがう」という感情は、いつか必ず持つことになるだろう。それはつまり、死んだペットを生き返らせたかった飼い主の目的を達成できなかったということだ。
たとえがペットだとわかりづらいかもしれない。オーケー、はっきり書こう。
人間の子どもなら、どうだろう?
子どもが死んだら悲しい。子どもを失う辛さは耐えられない。だから子どもが死んだらクローンをつくろう。そういう話だったら、どう思う?
クローンが死んだ子どもと少しでも違うしぐさをしたら? 話し方や遊び方、好きな食べ物や嫌いな食べ物、勉強の成績や、得意だったはずのスポーツがいまいちになったら?
死んだ子どもを生き返らせたかったのに、クローンは死んだ子どもとは違う生き物であることを見せつける。それに親は耐えられるだろうか?
例えばオリンピックの代表選手に選ばれるほど足の速かった子どもが死んで、その子の遺伝子からつくったクローンが、代表に選ばれるほどには速く走れなかったら、親はどうするのだろう?
足の速くないクローンでも、あの子と同じように愛情を注ぐことができるのだろうか?
いや、質問を変えよう。クローンの立場から考えよう。
「足の速くない僕(わたし)を、お父さんとお母さんは愛してくれるかな?」
クローンは命の大切さを損ねてしまう。そして、この世から無償の愛を消し去ってしまう。私は、そう思う。